女川町の歴史

女川町の歴史


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女川町(おながわちょう)は、宮城県の太平洋沿岸に位置する町。
日本有数の漁港の女川漁港があるほか、女川原子力発電所が立地することでも知られています。

■女川町の歴史

・女川町の由来

女川町西方背後にある黒森山の麓にあたる奥地に安野平(あのたいら)という所から流れ出る渓流があります。平安時代、安倍貞任の軍勢が隣村・稲井(現在の石巻市稲井)の館に寄り、源氏方の軍と戦ったとき、一族の婦女子を安全地帯であった安野平に避難させました。このことから、ここから流れ落ちる小川を「女川」と呼ぶようになったのです。

1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行された際、藩政時代の女川組20浜の各村を合併して女川村と称しました。全地域を女川村と呼ぶに至ったのは、藩政時代初期から文政年代にわたって、女川組20組の大肝入を勤めた丹野組が代々定住した土地であること、地理的に利益を得やすい所であったこと、さらに、全地域が大肝入時代の女川組でもあったので命名されたものと推測されます。[要出典]1926年(大正15年)4月1日に町制へ変更され、女川町となりました。

・女川湾の歴史

女川湾は比較的水深が深く、宮城県に寄港する大型船舶の碇泊地になることが多く、なかでも、塩釜港や石巻港が浚渫整備される以前は、大日本帝国海軍の艦船の入港が多く、商港の整備に当たって軍港誘致の請願が行われたことがあります。第二次世界大戦中には、東北地方太平洋岸の防空・対潜任務のため、横須賀鎮守府隷下の「女川防備隊」が設置され、艦艇が配置されました。また、大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日には連合国軍機による空襲を受けて大日本帝国海軍艦艇7隻が撃沈されています。

・年表

近代以降

1939年(昭和14年)10月7日:国鉄(JRの前身)石巻線で女川駅が開業。
1945年(昭和20年)8月9日:第二次世界大戦中、連合国軍機による空襲があり、大日本帝国海軍艦艇7隻が女川湾で撃沈される。
1951年(昭和26年)12月13日:女川漁港が第3種漁港に指定される。
1956年(昭和31年)2月12日:国鉄石巻線で浦宿駅が開業。
1956年(昭和31年)4月21日:町章を制定する。
1971年(昭和46年)4月1日:有料道路「牡鹿コバルトライン」(宮城県道220号牡鹿半島公園線)が開通。
1980年(昭和55年)7月8日:女川原子力発電所、着工。
1984年(昭和59年)6月1日:女川原子力発電所、運転開始。
1994年(平成 6年)町営の観光物産施設「マリンパル女川」が開業。
1996年(平成 8年)4月:「牡鹿コバルトライン」(宮城県道220号牡鹿半島公園線)が無料化される。
2002年(平成14年)10月14日(鉄道の日):女川駅が「東北の駅百選」の一つに選定される。
2011年(平成23年)3月11日:東日本大震災が発生

行政区域の変遷(市町村制施行以後)

1889年(明治22年)4月1日:牡鹿郡にて旧制度下の20村(女川組20浜の村)が合併した上で村制を施行し、女川村が成立。
1926年(大正15年)4月1日:町制が施行され、女川町が成立。
■東日本大震災

2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、女川町は女川原子力発電所の震度計が震度6弱を観測した(町内の検測所は津波で流失)。さらにこの地震が引き起こした津波に襲われ、沿岸部は壊滅的被害を負った(東日本大震災)。また、港湾空港技術研究所の調査によれば、津波の最大波高(浸水高)は女川漁港の消防庁舎で海抜14.8mを記録した。

津波で3階建ての町庁舎も冠水したが、町長以下職員は間一髪屋上に避難して無事であった。女川原子力発電所は高台にあったため辛うじて津波の直撃を免れたものの、発電所を管理する宮城県原子力センターや原子力防災対策センター(双方とも2階建ての建物)は屋上まで冠水し、環境放射線監視システムが壊滅。職員の多くも行方不明となったため、国や県に一時的に報告ができないという状態に陥った。

東北電力は女川原子力発電所の潮位計の記録を解析し、当施設が浸水高13mの津波に襲われていたことを、4月7日に公表した。女川原発の敷地の標高は14.8mであるが、地震で約1m地盤沈下したことが分かっており、計算上、津波は敷地まで80cmの高さにまで迫っていたことが判明した。実際、津波の飛沫の痕跡が敷地の外縁に残っていた。なお、最大波から15分ほど後に発生した強い引き波のときには、海水面が下がりすぎて原子炉を冷却するための取水口が3- 5分の間むき出しになっていた可能性もあるという。

町域にある鉄道駅のうちJR石巻線の女川駅は、土台だけを残して駅舎が流失したほか、駅に停車中であった列車や町営温泉の保存車両等が流されるなど、甚大な被害を受けた。また、女川-石巻間では線路が損傷した。
更に鉄筋コンクリート製のビル6棟が基礎部分ごと地面から抜けて横倒しになる被害も発生した。液状化現象で基礎が浮き上がった所を津波になぎ倒されたと思われる。世界的にも例の無い被害である事から、町では被害資料として保存する方針を固めている。

3月??日:津波被害で損壊著しい町庁舎に代えて、女川町立第二小学校の校舎2階に女川町災害対策本部が置かれる。
3月23日:この時点で判明した人的被害は死者473人・行方不明者620人、物的被害はほとんど詳細不明。
3月31日:女川町公式ウェブサイトのホームページが臨時の状態ながら回復する。
4月21日:町の有志により、町内をエリアとする臨時災害放送局(FMラジオ 79.3MHz)「おながわさいがいエフエム」が開局し、女川町立第二小学校校庭に設置されたスタジオから24時間体制で放送を開始する。
5月26日:この時点で判明した人的被害は死者476人・行方不明者567人・重軽傷者2人、物的被害は全壊3,021棟・半壊46棟・一部破損86棟。
6月6日:この時点で判明した人的被害は死者488人・行方不明者454人。

※引用:
ウィキペディア (Wikipedia):フリー百科事典(http://ja.wikipedia.org/wiki/女川町)